「労働時間」の概念…産婦人科医師の宅直当番とは

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自宅で待機している時間は「労働時間」!?

職場からの急な呼び出しに備え、自宅等で待機している時間。当然お酒は飲めませんし、遠くに外出する事も出来ません。果たしてこの時間が、「使用者の指揮命令下から外れ」「労働から解放された」と本当に言えるのでしょうか?

個人的に感じていたこの疑問に対し、一つの回答を提示した判決が出されました。平成27年2月26日、奈良地方裁判所(以下「奈良地裁」)で争われた時間外手当請求事件です。この裁判の判決文は、裁判所ホームページに全文がアップロードされています。興味のある方は、こちらよりご覧になってください。

事件の概要を簡単にご説明しましょう。原告2名は、被告が運営していた病院(以下「本件病院」)の産婦人科に勤務していた医師です。この病院では、産婦人科の医師に対し、宿日直当番の他に「宅直当番」が割り当てられていました。判決文によれば、宅直当番とは以下のような状態を指します。

病院における宿直勤務及び日直勤務並びに宿日直勤務に従事している医師等から要請があった場合に診療等に当たるために当番制で行われている自宅等での待機

すなわち、冒頭で申し上げた「職場からの急な呼び出しに備え、自宅等で待機している」状態の時間です。この時間が、労働基準法32条にいう「労働時間」に当たるか否か。これが、この裁判における争点の一つになりました。

奈良地裁はどんな判断を下したのか、以下に見ていきましょう

宅直当番の実態と当事者の主張

宅直当番の実態に付き、奈良地裁が認定した事実は以下の通りです。判決文より、要点を箇条書きします。

  • 宅直当番は、病院に勤務している産婦人科医師らの申し合わせで定められた
  • 宅直当番の割り振りは産婦人科医師らが行っていた
  • 宅直当番の割り振りについて、病院に報告していなかった(宿日直担当医師の報告はしていた)
  • 宅直当番の割り振りは、カレンダーやホワイトボード等により医師や看護師に周知していた

本件病院では、正常分娩か否かを問わず、陣痛が始まった妊婦の分娩に対して医師を必ず立ち会わせていました。分娩の際に医師が宿日直担当の1名しかいない状況でも、正常分娩の場合は助産師等が中心となって対応するのでそれで事足ります。

しかし異常分娩の場合、妊婦に対して診断・診療・処置・手術を行う必要が生じます。その対応は医師でなければできません。とりわけ手術を伴う異常分娩への対応は、産婦人科医師2名が必要でした。こういう事態への備えとして医師どうしで申し合わせていたのが、宅直当番制度だったという訳です。

原告側の主張は、「宅直当番は宿日直勤務と一体不可分の制度であって、(被告は)原告両名に対し宅直当番を黙示的に命じている」というものでした。本件病院は、産婦人科医師に対して宿日直勤務を命じています。しかし宿日直勤務は、宅直当番の存在無しには到底成り立ちません。よって医師どうしの申し合わせにより生まれた制度とはいえ、宅直当番は本件病院が医師に命じたものと実質的に言えるのではないか、ということなのです。

これに対する病院側の反論は、「(主治医の協力等も得ながら行うことを想定しているため)宿日直医師を1人配置すれば足りると総合的に判断しているものであり、宅直当番を宿日直勤務の前提にしているものではない」というものでした。

そして、宿日直担当医師だけでは対応できず、主治医の協力等も得られない事態が生じたとしても、その際に急な呼び出しを受ける負担は本件病院の全ての産婦人科医師が平等に負担するものであり、宅直当番はその負担を軽減するために医師らが申し合わせた制度に過ぎない。本件病院は黙示的であっても原告に宅直当番を命じた事は無い…というのがその主張でした。

「労働時間」の概念…奈良地裁の判断は

ところで、原告と被告とが争っている「労働時間」ですが、これはどういう時間の事を指すのでしょうか。その概念は、すでに最高裁判決によって確立されています。いわゆる「三菱重工業長崎造船所事件」の判決文において、最高裁は、労基法32条の「労働時間」を以下のような時間であると定義しました。

労基法32条の労働時間とは,労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をいい,実作業に従事していない時間(仮眠時間を含む。以下「非従事時間」という。)が労基法上の労働時間に該当するか否かは,労働者が非従事時間において使用者の指揮命令下に置かれていたものと評価することができるか否かにより客観的に定まるものというべきである

上記の「非従事時間」については、他の最高裁判決でさらに踏み込んだ判断が下されました。いわゆる「大星ビル管理事件」の判決文より引用します。

非従事時間において,労働者が実作業に従事していないというだけでは,使用者の指揮命令下から離脱しているということはできず,当該時間に労働者が労働から離れることを保障されていて初めて,労働者が使用者の指揮命令下に置かれていないものと評価することができる。したがって,非従事時間であっても労働からの解放が保障されていない場合には労基法上の労働時間に当たるというべきであり,非従事時間において労働契約上の役務の提供が義務付けられていると評価される場合には,労働からの解放が保障されているとはいえず,労働者は使用者の指揮命令下に置かれているというのが相当である

以上の考え方を踏まえた上で、奈良地裁は、本件病院における宅直当番を「全時間について本件病院の指揮監督下にあったとまでは認められない」と判事し、「労働時間」には当たらないと判断しました。その根拠は以下の通りです。

  • 宅直当番は本件病院の内規等に定めが無く、医師らによる自主的な取り決めに過ぎない
  • 宅直当番について本件病院に報告しておらず病院側から報告を求めた事も無い
  • 他の医師の出勤要請は宿日直担当医師が判断するものであり、病院側が呼び出しを受けた医師について把握していた事実は認められない
  • 宅直当番の医師が急な呼び出しに対応できる態勢をとっていたことはうかがわれるが、病院に対してその事を報告していたとか、病院側から待機場所の指定を受けていた事情は認められない
  • 宅直当番制度は、原告両名にとっても負担軽減のメリットが有る
  • 本件病院が、宅直当番制度を前提に宿日直制度を構築したと認められる証拠は無い

原告両名は病院側に対し、宅直当番の時間は「労働時間」に当たるとして時間外割増賃金の支払いを求めていました。しかし奈良地裁は上記のように判示し、宅直当番の時間については割増賃金の支払い義務は無いとの結論を出しました。

もっともこの判断は一地方裁判所が下したものに過ぎず、必ずしも法理論として確立した訳ではありません。この判決を受けて原告がどう出るのか、その行方が注目されます。

今回の事件は産婦人科医師の宅直当番が争われましたが、似たような制度が有る職場も少なくないのではないでしょうか(例えば、OA機器の保守点検作業員など)。「(急な呼び出しに備え)自宅で待機している時間が労働時間といえるか」は個人的に大変興味深いテーマです。引き続き、事の推移を注視していきたいと思います。